全方位に開かれた問い

夜の1時を過ぎ、それぞれが寝る前の自分の時間を過ごしている。
先程まで別の部屋で本を読んでいた友達が、
ページの間に指を掛けたままこちらにやってきた。
少し興奮気味に、本を読んでいた私の前に座り、ねぇちょっと気付いたんだけどさと話し出す。
 
この本を読んでいて分かったんだけど。この前話した女の子との話。
こう、僕はこの子の話を聞こうとか、
この子が自分の状況とか心の癖に自覚的になることを助けたいと思ってたんだけど、あれなんだよね。その子にとってはその時間は最初から最後まで「ただカフェでお茶をする」に過ぎなかったのかなぁと思って。
だから自覚的になるとか、今の自分の状況を解決しようとか、僕どうにかそっちに持っていこうとしたそれらのものは、彼女には無縁の時間だったのかなぁって。
いやぁ、当たり前なんだけど、当然なんだけど、言わなきゃ伝わらないなぁ。
 
その子が耐えられないようなショックを与えたくないというか。
もし自分がこうでないとこの人と私と一緒にいてくれない、って思ってさ、
この人と一緒にいたいから自分はこう在ろうってなると、よくない気がするんだよね
 
うん。「一緒にいれないかもしれない」は、生涯でそう何回もある訳じゃないけど、すごく越えにくいよね。それを不安から喜びに起点を変えるのは、すごく難しいと思う。
 
真っ正面から、「この時間をどうしたい?」ってきいても、
こう、なんというか、あまり言いたくない言葉なんだけど、はぐらかされそうな気がしてる。それではぐらかされたら、この人は向き合わないんだなって、俺が閉じる。
 
そこまでの話を、相槌を打ったり、口を挟んだりしながら聞く。
不安な女の子と、
優しいがゆえにその子を暴走する方向に導く男の子、という図を勝手に描く。
彼は、きっと断ち切らないだろうなぁと思う。「会うのは辞めよう」なんて言わないだろうなぁ。
 
今ふっと、問いは全方位に開かれている、というイメージが降りてきた。
なんとなく、伝えたほうがいい気がしてまんま相手に伝える。
案の定、どういうこと?説明求むという顔をされる。
 
例えば、私があなたに向けて「今この時間をどうしたい?」と訊くとするじゃない。
すると私たちはその問いを、「あなたという方向に向けた、私という人間が生み出した問い」だと思うじゃない。
まぁ、それはそれで正しいのかもしれないけど、
「この時間をどうしたい?」という問いは、たまたま私の口から出てきただけで、問いは問いそのものとしてそこに存在していて、実は全方位に開かれているという可能性もある。
問いを一方通行に閉じたものとして、つまりあなたが応えるべき問い(私は応えなくてもよい問い)として差し出すと、そういうちょっとした不公平感のようなものを人間は嗅ぎ取れるから、相手が閉じることもあるよね。
もちろんどうして閉ざしたいのかをそのやり取りの中で気づいているかは分かんないけど。でも相手にも自分にも、その問いは開いているとそのうちの1人が気づけたら、色々と変わってくるんじゃない。
 
そんなことを話していると、
その女の子から彼に、眠れないです…とメッセージが来て、彼は困ったように笑った。

私は悪くない

自転車がまた盗まれたの。
目の前に座る知り合いが、ふと訪れた話の切れ目を縫うようにそう言った。
 
 1回目は3ヶ月ぐらい前なんだけど、
住んでいるアパートの共同駐輪場に停めていた自転車がいつの間にか盗まれてたの。
でもね、すごく面白いんだけど、私が盗まれたことに気づく前に、犯人というか、盗んだ子は隣の区で補導されたの。夜中に、知らない番号からやたらと電話がかかってくるなぁと思ってたんだけど、無視して寝ちゃったら、次の日の朝、警察署の人がやって来て事情を説明された。
そこで初めて8000円で買った中古自転車が盗まれていることに気づいたの。
 
 親切に自転車も大きな車で持ってきてくれて、
被害届っていうのかなぁ、紙を書いてる時に、
どうして分かったんですか?って聞いてみたら、
”男の子なのに深夜にピンクの自転車だったから、まぁ怪しいなと思いましてきいてみたら最初は否定したんですけど、しどろもどろだったのでまぁ途中から認めたという感じですね。”だって教えてくれたよ。
 
こういうの、超スピード解決って言うんだね。
速すぎて、盗まれたことに気づかなかった私が間抜けみたい。
 
まぁその時は近くの大学の大学生が盗んだみたいで、
むしろよくこんな山際のアパートにある駐輪場の一台に目を止めたなぁって関心しちゃった。
 
 それでね、1週間前にまた盗まれたの、私の自転車。
今回は、知らない番号から電話がかかってくることも、朝警察の人が家にくることも無さそうかなぁ。
 
それまで面白がり特有の小気味よい声を私に提供してくれていた彼女の声は、
突如私には分からない複雑さを増す。
今回は、一度盗まれたことがあるのに鍵をつけっぱなしにしていた私がどう見ても悪い、と反省が始まる。
私たちは、普段から親しい相手の移動手段が変わると、何となくそれに気づく能力がある。「あれ、今日は自転車じゃないの?」と。
そうやって、話そうと思ってなくても事情を説明することがある。
親に話すと、どうして鍵をつけておかなかったの、と問われる。
友人に話すと、鍵をつけないのが悪い、と言われる。
あぁ、鍵をつけっぱなしにしたことと過去の私と、
鍵をかけたり外したりするのがめんどくさい私のこの性格が悪いんだなぁって。
私の目の前で、彼女は悲しそうな顔を見せる。
 
ちょっと、待って。いや、だいぶ待って。
鍵のついた自転車が盗まれることを前提として思考が始まるのは、おかしい。
ならば殺された人は殺されないように気をつけていなかったことが悪いのか。
あなたの論理はそういうことになる。
あなたは他の人にはきっと「あなたが悪い」なんて言わないのに、
どうして自分には「私が悪い」を採用するのか。
 
だから、私がきっぱり言います。
そもそも、あなたは悪くない。
盗んだ人が悪い。
 
そう伝えると彼女は吹きだした。
うん、ほんとはね、めちゃくちゃ怒っている。
私の自転車を返せ、このやろーと思ってる。
自転車なんか盗むんじゃねーと思ってる。
盗まれた方の不便さを考えろこのやろーと思ってる。
と言った。
 
それは自己を正しく守る術として、大切な思考と感情だと思うのです。
そしてそれは、健全な人ができる主張です。