わたし、おねがいする

「やさしくなんかない」のではなく

きっと他のだれかにやさしくしてほしい

 

いっかい気づいたことを

わすれて、くりかえしちゃうのは、

いけないことと思ってる

 

おなかがいたくても

いらいらしないでよ

 

あるしゅんかんで

わかったり、

いつの間にか

わからなくなってたりするよね

洗い流されるもの

アルバイトをしなければ、と思い立った。
生活費や、少し前に通知が来た保険料や市民税などのことを考えると今の収入では成り立たないことに気づく。
成り立たなくなるという見通しも充分な動機なのだが、
お金を気持ちよく財布から出せないという現実の気持ち悪さの方がわたしを強く動機づけるように思う。
 
ネットを開くと、世の中にはアルバイトだけの求人サイトがあったり、更に派遣という形態もあることを知る。
わたしが決めつけていた範囲よりも、アルバイトに関してもっとずっと広い選択肢があることに気づく。
とにかく動くことにする。
 
ノートの適当な余白に、アルバイトの条件、と見出しを立てる。
その下に箇条書きで思いつく限りの条件を明確に絞っていく。
すると、今のわたしの要求が、具体的に手のひらに収まったような感覚がもたらされる。
 
前回のアルバイトは、探そうと思ってから探すまでが長かったのだが、今回は短く済んでいる。
求人サイトではweb応募というのもできるらしいが、迷った結果、電話をかけることにする。
電話をかけるという苦手な行為も、この短い人生の間に5回以上こなしたからだろうか、
アルバイトを探し始めてから応募するまでに半日とかからないのはわたくし史上の快挙である。
 
電話して面接の日取りを取ってもらう。
朝それを済ませたからか、今日のわたしは掃除のやる気が高いようだ。
洗濯物を取り込む。
洗濯機がいつの間にか回り終えており、同居人がわたしの寝ている間に回したのだと気付く。
それを干す。
溜まっていた油っぽい食器にお湯を注いで洗う。
ミルを取り出しコーヒー豆を挽く。アンモニア消臭として試験的にトイレに置いている容器の中身を捨て、今出た出がらしを容器に入れる。
今日の日付を書いた付箋を貼って、またトイレに置く。
前から気になっていた洗濯機のネットを漬け置きする。
漬け置きの洗剤を探していたところ、洗濯槽の洗剤(弱アルカリ性)と漂白剤(酸素系)があったため、洗濯槽の掃除を決行する。
洗濯機の横の洗面所から、手桶でお湯を溜める。
そこに二つの洗剤を投入して、撹拌したあとスタート/一時停止と書かれたボタンを押し、待つ。ここから半日ほど、待つことになる。
 
ある程度こなし終えて、気持ちよくなったため、先程挽いたコーヒーをカフェオレにしてテレビを見る。
CMの切れ間にふと思い出して洗濯機を見に行く。
スタート/一時停止ボタンを押して、撹拌する。
するとカビのようなものがぴらぴらとまわるのが分かる。大きいのも小さいのも、たくさんが渦に翻弄されている。
水も最初より濁って見える。
それが嬉しくて2度、3度とスタート/一時停止ボタンを押して、撹拌する。
カビがたくさんある、ということは前回の掃除から今回の掃除までの間、不潔な状態だったということなのだが、
そんなことよりもごっそり取れることの方が嬉しくて、楽しい。
 
生活だけは違うから。という誰かの言葉を思い出す。
生活だけは消えないから、という意味のように今日は感じる。
そしてそれは生に直結する営みだ。確かさだ。

感情の面倒を見させる

いいか、私を不機嫌にさせるな。
その声を捉えた時刻、私は友達とファミレスでご飯を食べていた。
声を辿ると辿り着いた先は、2つ離れた左隣りの席にいる女性だった。
彼女がそう命じた相手は、彼女の子どもであろう幼い男の子だった。
一度視線を自分の手元に戻すために、辿ったのと同じ道を逆走する。
帰ってくるとき、その家族の席と我々の席の間には、
ワンピースを着た50代ぐらいの女性が何事もないかのようにサラダを食べていたのが見えた。
思わず私は助けを求めるように周りをさっと盗み見たが、店内は小さい子供連れファミリーで溢れかえっており、その発言を捉えたのは恐らく私だけのようだった。
 
その光景は、私にその家庭に介入させる衝動を掻き立てはしたが、
果たしてそれがよいことなのかが分からなかった。
 
しばらくすると、彼女がテーブルの端に置かれたコードレスチャイムを繰り返し押している。ピンポンとなり、重ねるようにピンポンピンピンポンと音がなる。彼女は鳴った瞬間に店員が来ないと気が済まないようで、ここの店員は接客がなってへんわ!と吐き捨てる。
彼女の足元には、彼女自身の不機嫌な感情が散らばっている。
 
しかし彼女と同じテーブルに座る子どもも、彼女の父親と思われる男性も、何も反応しない。
宙に発せられた彼女の感情は、誰も回収することなく散っていく。
もちろん彼女が自分で回収することもない。
彼らという空間がそのテーブルを囲んで出来上がっていく。
 
 
彼女は明日の予定を楽しそうに話しているのがふと聞こえてくる。
明日はお母さんの友達が来るから、一緒にプール行こな。
それにすら、誰も反応することなく宙に舞って消えていった。

泳いだ日

水着を買ったので、人が少ない平日を狙ってプールに来た。
いや正確にはプールでいっぱい泳ぎたかったから水着を買ったのだった。
ほんとは家の近くにある市営プールに行こうとしたが、
本来なら月曜日が休館のそこは、しかし昨日の月曜日が海の日で祝日開館していた為、
今日が振替休館となっていた。
水着とタオルを持って家を出た後に気づいたので、その足で急遽ここに来た。
 
平日の施設の入り口には誰も見えなかったが、高校生の男の子たちが私を追い越していく。
泳ぎたいと思ったのも、ここで泳ぐもの6年ぶりなため、
受付の場所が分からなかった私は彼らに着いて行くことにする。
私が中学生の女の子だった時に感じた、登下校ですれ違う高校生の男子の群れに対する恐怖のようなものは、
薄くなったし当時のリアリティがある訳ではないが、まだどこか根付いている気がする。
なので彼らを追い越して、違うエレベーターを使うことにする。
 
大人1人で、あとすみません、
スイムキャップを忘れてしまったのですが、お借りできますか?
そういって1人分の入場券とスイムキャップを手に入れて更衣室へ向かう。
 
更衣室にもお手洗いにもシャワールームにも、誰もいなかった。
誰の気配も感じることなく裸になるって少し奇妙で楽しい感覚だ。
 
更衣室に入ったのと逆方向に出ると、そこには50メートルのプールが広がっている。
コースの奥のほうには、高校の水泳部がコースを貸し切って練習をしているのが見える。
どのコースにも3・4人の人がいるものの、50メートルの間にいるのだから、人同士の間隔はまばらだ。
私はそこを通り過ぎて25メートルのプールへと続く廊下へ向かう。
 
入水し、泳ぐ。このコースには誰もいない。
右側通行で、平泳ぎを。クロールを。背泳ぎを。
25メートルを4往復もすれば顔が熱くなる。
泳げるということは、泳ぐことができる環境に自分を向かわせてあげて成立するご褒美なのだと実感する。
最初は何も考えずに泳いでいたが、1時間を過ぎたあたりで色々と遊び始める。
頭を下げて抵抗を減らそう。クロールの息継ぎを4回目にすると早くなるのか。背泳ぎは足だけで進むのか。
ビート版を手に泳ぐことにする。
普通に泳ぐのは飽きた気もして、何キックで25メートルを泳げるのかをはかることにする。
最初は平泳ぎ27キック。おやおやと思い、次はキックの推進力を存分に待って、ゆっくりと16キック。
ドルフィンキックだとどうなるのだろうと、試してみる。こちらも16キック。その後はどちらも16キックを切ることなく泳ぎ続けた。
黙々と泳ぐことはこんなにも気持ちがいい。自分の身体を自分で使っているというだけで気持ちがいい。
 
2時間と少し泳いで今日はもう終わりにする。プールから出た途端、二の腕の裏が痛いことに気づく。なんとなく腹筋の奥も痛いような気がする。何より眠い。
今日私が歩けるのはあと何メートルというリミットが急に現れて、どんどん減っていくような気がする。私はそのリミットが0センチになる前に、ちゃんと家に帰れるだろうか。
 
にしても、精神衛生上でも運動が大事だというのはほんとだった。私はそれを確かめたくて考えたあげくプールに狙いを定めたのであった。それが確かめられたのはとてもとても重要で、やはり私が健全に生きるためには身に付けるべき価値観であるように思われた。
今年はあと何度私は泳げるかなぁ。

悪意を投げつけられる

今住んでいる家はどちらかというと山際にある。
市内を通るバスは大体230円で均一だが、
最寄りの停留所の次の停留所からは均一区間外となり、バスは山を越えていく。
1人でお茶でも飲もうと、電車に乗って市内の中心部へ向かう。
平日の昼間だから、だいたいどこの店に入っても座りたいところに座れるだろう。
そんなことを思いながら、街を歩く。
 
すれちがう人に彼の悪意と欲動を生のまま投げつけられることが稀にある。
すれ違いざまに一言、といったように。
それに付け加えるようにわざわざ私を追いかけてさらに一言、といったように。
時間にすると5秒ほど。
 
私にはほんの一瞬だけ動揺が走り、すぐさま大切な何かを護るように怒りが武装蜂起した。
普段は眠っている私の攻撃欲が全力で悲鳴をあげながら、
思いつく限りの罵声を彼らの顔に、胴体に、手に、足に、投げつけた。
けれどもそれは私の心から出ることはなく、音にはならない。
それなのにそれなのにこんなに動悸が激しい。
 
彼らは5人とも全員男であった。
そしてみな、私の身体について、下卑た欲動を投げつけてきた。
そしてみな、どこかそう言われることを喜べと強制する卑しさもあった。
そしてみな、自分が投げつけるそれは暴力でも悪意でも無いとでもいうかのような無知さがあった。
私は物として扱われたのだ。
そのことに気づいた。悔しくて悔しくて、帰り道は震えて泣きながら帰った。

あなたに私の体験を差し出す

この人と話す時にだけ表面化する癖がある。

それは自らの感情について話す時。
あなたのいびきが迷惑だ
という言い方をせずに
あなたのいびきをきくと私は迷惑な気持ちを体験する
という言い方をする。お互いに。

「あなたの好きにすれば」と言われた時、寂しさを体験した
あなたが不機嫌そうだった時、振り回されていると体験した
私はいま怒りを体験している

 

私たちは衣食住をともにする。自らの感情と体験について定期的に語らなければ、私たちも関係性もそのうち腐って異臭を放ち始める。

何度もその異臭を嗅いできたから、できるだけそれぞれの体験をその場に差し出すことが関係性に効くということを、どこか暗黙のところで嗅ぎ取ったからそうするのかもしれない。

あなたの体験と私の体験がどこか少しでも重なり続ける限り、そしてそれを差し出すことを思い出すことが出来る限り、私たちは細く長くともに生きられる気がする。